先日「ごほうびの日」なので、美味しい「冷し中華」を食べに行こうとしました。
ところが、ふとそれでは物足りないと感じ、中野まで出かけました。
店の前に「いわしの刺身がおいしい店」と書かれた、リーズナブルっぽい店に入ったのです。
ところが、店主がひどく頑固な人で、しゃべっているうちにひどいストレスを覚えてしまいました。
店を出て、もう一件、ということで入ったところが、ショーパブでした。
テーブルチャージが2000円の安い店です。
ここで見たショーから、まさか「豊かな貧乏生活」をかなえる重要なヒントを得られるとは、思いよりませんでした。
「ダンス」は「ときめき」の象徴。
ショーといっても過激のものではありません。
いわゆるダンスです。
ポールダンサーなどが登場するのですが、久しぶりに惑溺できました。
「ダンス」という言葉で思い出すのが、小説「マディソン郡の橋」です。
若くもない男女のいわゆる禁断の恋の物語です。
小説の作者である、ロバート・ジェームズ・ウォラーは、不倫の恋でさえも、「ダンスの余地」として人生には重要なものではないかと主張しています。
「ダンス」という言葉は象徴です。何の象徴かというと、「ときめき」「萌え」「惑溺」「胸騒ぎ」など、非日常的な命の燃焼を指すのだと思います。
まさに、その「ダンス」をショーパブで見ることができました。
文字通りの「ダンス」なのですが、この「ダンス」は目の前に起きている事象というよりも、たぶん自分の内部にある何ものかが舞踏しているのだと感じたのです。
ダンスは肉体的な運動というより、精神的な躍動を意味する、そんなことを眼前で激しく揺れ動く肉体を見ながら思っていました。
「ダンス」という言葉を、もう少し表現を換えてみたいのです。
本居宣長が愛した鈴の話
本居宣長という国学者は、執筆する机の上に、いつも鈴をおいていたそうです。
この鈴を鳴らすことで、自分の内部に燃えている火が消え入りそうになることを防ぐ、火を再び燃え盛る炎にするために、鈴を振ったのではないでしょうか。
眠りつこうとしている大事なもの、死滅しかねない貴重な願いを、呼び戻すために、本居宣長は鈴を鳴らしていたのだと思うのです。
貧しさが豊かさであるためには「祭り」が必要。
「ダンス」をさらに他の言葉に置き換えるなら、それは「祭り」。
「祭り」は決して激しいものでなくてもかまいません。
静かな「祭り」もあっていいのです。というか、命の真の燃焼は実は静けさの中でしかありえないと思う時があります。
「祭り」は「生きがい」「生の証し」「存在理由」などの言葉に変換しても良いでしょうね。
私は「貧しさ」を求めています。
なぜか?
それは「祭り」を呼び起こすには、最良の状況が実は「貧しさ」だからです。
阿辻哲郎という哲学者は「しめやかな激情」という言葉を使いました。
ある時、激しく燃え上がる熱情は、しめやかな情感によって育てられる、という意味は私は「しめやかな激情」という言葉を解釈しています。
「豊か」であるとは、何の変哲もない暮らしの中で、静かに、あるいは「しめやか」に、「祭り」の準備をしていることではないでしょうか。
しめやかに、充分しめやかに……祭りの準備をするため、私は「貧しさ」を愛しているのかもしれません。