自宅の退去に向けて、本の断捨離を進めているのですが、どうしても捨てられない一冊の方が出てきて、しばし時を忘れて、ページをめくっておりました。
星野富弘の「風の旅」。この詩画集は、私の青春期に鮮明な思い出を刻んでいます。
この本を、なぜ断捨離できなかったのでしょうか。
懐かしさだけならば、むしろ簡単に手放せたはず。
でも、この「風の旅」は、もっと深い意味で断捨離できなったのです。
星野富弘の「風の旅」と出逢いは、運命だったのかもしれない。
以下が、どうしても断捨離できないと痛感した本です。
まだ、私が二十代の半ば頃のことです。当時付き合っていた彼女から贈られたのが、この星野富弘の「風の旅」でした。
それまで、文学書はある程度は読んでいたのですが、「星野富弘」という名前すら知らなかったのです。
詩画集を開くと、頭の中に詰まっていた抽象的な概念は、一瞬にして消え去りました。
当時の私は、現代詩とは似ても似つかない我流の詩を書いていたので、スッと星野ワールドに没入できたのでしょう。
詩壇とか画壇とか全く関係のないところで、これほどまでに人の胸を打つ作品が発表されていたことに驚きました。
詩も、絵も、痛々しいまでに純粋だったのです。
流派とか、主義主張とか、そんなものはどうでもいい、ただ哀しく美しすぎる世界がそこにありました。
この「風の旅」の中から、一編だけご紹介しましょう。
「つばき」の絵に寄せて書かれている詩です。
ひとつの花のために
いくつの葉が
冬を越したのだろう
冬の風に磨かれた
椿の葉が 輝いている
母のように
輝いている
着眼点が他の詩人とまるで違いますよね。椿の花ではなく、「葉」に注目している。
しかも、椿の葉を「母のように 輝いている」と詠ったところに、ハッとさせられました。
椿をこのように詠った詩人は後にも先にも、星野富弘しかいないでしょうね。
「風の旅」を断捨離できない、深すぎる理由。
あれから、気が遠くなるような時が流れました。
二十代に出逢った時はあれほど感動したのに、その後、私の本棚には常にこの「風の旅」はおさめられていたにもかかわらず、なぜか手に取ることさえありませんでした。
二十代の終わり頃から、世の中に荒波に飲まれ、自分を静かに顧みることもできない時期が長かったのです。
星野富弘の詩と絵は、あまににもピュア過ぎて、私は知らぬ間に、この星野富弘の詩画集という「清らか過ぎる泉」から、知らぬ間に私自身を遠ざけていたのかもしれません。
しかし、もう遠ざかろうなどとはしません。
なぜなら、私も「風の旅」に出ようとしているから。
手足が不自由だという特殊の状況下で星野富弘は、詩と絵を紡ぎ出しています。
でも、その詩と絵は、特殊なものではありません。
生命の原点から、森羅万象を見つめ、感じ、そして祈っている星野富弘。
彼の詩と絵は、ひたむきに生きようとする人ならば、誰もが感動するであろう、普遍的な美と真実を表出しています。
もう私にはそんなに時間がありません。あふれる情報の渦の中に巻き込まれて、自分を見失うことだけは、避けたいのです。
星野富弘が見たような純粋な心の風景だけを見つめて暮らしていけたらと、切に願っています。
星野富弘の「風の旅」は、今後の私にこそ必要なのだと感じつつ、私の心の本棚に深く収めました。