白洲三四郎ブログ

白洲三四郎(しらすさんしろうshirasusanshirou)がミニマリスト計画を実現するまでの記録。旅立ちのために、断捨離と節約を実行中。

怪物を断捨離する?

本を整理している時に、突然、湧き上がってきた思いがありました。

その想念は次第にふくれあがり、私を支配し始めたのです。

ついに、私は独りで、こうつぶやいていました。

あの怪物を、断捨離しなければならない」。

 

 私にとって「怪物」とは、ロシアの大文豪・ドストエフスキーです。

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ドストエフスキーという山を登っている時に感じた暴風雨。

では、ドストエフスキーを断捨離するとは、どういうことなのでしょうか。

私は青春期から、ドストエフスキーの小説を繰り返し読んできました。

罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」は何回も読みましたが、まだ理解できていません。

誰もが認める世界一の作家であるドストエフスキー。

しかし、その本質を理解している人はほとんどいないでしょう。

それほど、ドストエフスキーの世界は深淵かつ崇高なのです。

もしも、生活の心配がまったくなく、1年間、読書だけしていればいいという環境になるならば、ちゅうちょなくドストエフスキーの全集を読破すると答えた、そんな自分もかつてはいました。

ドストエフスキーという山頂には一生かえても到達できなと知りながらも、あえぎながら登ってゆく苦悩を、自分に課した時期もあったのです。

闇と光が、苦しみと歓びが、天使と悪魔が、天国と地獄が、目まぐるしく交錯するドストエフスキー的世界は私を惑溺させるのに充分な魔力を有していました。

蒼白い炎に自ら焼かれたいと願った、無謀な自分が生々しくよみがえってきます。

ドストエフスキーはとてつもなく自分にとってあまりに偉大であり、怪物のような存在でした。

ドストエフスキーという険しい山を登るには、暴風雨に耐えなければいけません。

ドストエフスキーを断捨離する?

しかし、もう時間がありません。

正直、ドストエフスキーの全集を読破するパワーは、もう私にはありません。

限りある時間とエネルギーを、ドストエフスキーのために費やしている余裕はないのです。

ドストエフスキーの評価が私の中で下がってわけではありません。

先日も少し書いたのですが、人生においては「謎」があるから面白いのであって、もし「謎」が解けてしまったら、生きる張りがなくなってしまう気がしているのです。

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ドストエフスキーの名作小説「白痴」の中で、ドストエフスキーは主人公のムイシュキン侯爵に以下のように語らせています。

美は謎です。

20代の時、この言葉の意味がわからなくて苦しんだことがありました。

苦しいけれども、その謎を解きたくて、いろんな本を読み、いろんなことを考えたものです。

でも、私はもう謎解きはしないと決めたのです。

私も本当に「美は謎だ」と思います。ただ、その謎をあるがままにそのままに受け入れることにしたのです。

謎は解こうとせず、前を向いて歩くことに決めました。

生きるとは、悩むことでも、考えることでも、謎解きをすることでもなく、歩くことだと思うのです。

今なら、こう、ハッキリ言えます。

生きるとは、歩くことだ

実は、この言葉は20代の時に、ある旅行記の中で私自身が書いた言葉です。

素直に原点に回帰します。

すべてを、あるがままにそのままに受け入れ、歩くことが生きることだと断言できたら、ドストエフスキーは読む必要はないと思ったのです。

それを「怪物の断捨離」「ドストエフススキーの断捨離」と呼んでみたのでした。

暴風雨をあえて求めるのではなく、吹いてくる風に身をまかせ、自分らしく自分の歩幅で歩いて行こうと決心したのです。

あなたにとっての「怪物」は、何ですか?

私にとっての「怪物」はドストエフスキーでした。それは単なる偶然の出逢いにすぎないのかもしれません。

その偶然こことを「運命」と呼びべきなのでしょうか。

人ぞれぞれモノ・ヒト・コト、いろいろ違うだろうけれども、誰もが「怪物」のごときものに一度は出逢っているのではないか、最近よく考えるのです。

自分にとって深く結びついたもの。

憧れであり、愛しいものであり、憎らしい敵であり、そして、いつか離別する時が来ると胸騒ぎを感じ続けてきたもの。

執念のような、呪いのような、祈りのような、代替えできない存在を、誰もが一つは、あるいは一人は、出逢っているのではないでしょうか。

一生を通じてバランスよく付き合えるのならば、それは「怪物」ではありません。

時には自分自身を窮地に追い込んでしまう、燃やし尽くしてしまう、滅ぼしてしまう危険性があるから、いつか離れ離れになるべきなのです。

理想的には「怪物」との離別は、自然に、無理なく、音もなく行えたらいいのですが、今なら、それができそうな気がしています。

たまたま私にとっての「怪物」が、ドストエフスキーだっただけのこと。

あなたにとっての「怪物」はなんですか?

そして、その「怪物」と別れる準備はできているでしょうか。

出逢いも「運命」なら、別れも「運命」。その「運命」を、静かに受け入れようと私は思っています。