今日は節約術というより、「貧しさ」と「豊かさ」について、そして「不幸」と「幸福」について考えてみたいのです。
いえ、そうすることで、私の節約術の本質が見えてる気がしています。
自分の人生を振り返ると、あっという間に、けっこうな年齢になっていた、そんな感じです。
これまでの私の人生に何があったのでしょうか?
思い返せば、そこには、20代の後半で失恋した時から、激しいアップダウンが始まった気がします。
5回の手術を経験。入院生活は合計で1年以上にも。
20回以上も転職を繰り返し、借金にまみれ、病気や交通事故などで、4回ほど死にかけたことがありました。
今、生きている方が不思議なくらい。
でも、はっきり言えることは、死ななかったことです。
病気にせよ、事故にせよ、失業にせよ、私の命を完全に消し去ることはできませんでした。
運が良かったり、周囲の人たちに助けられたリして、その都度、立ち上がることができたのです。
勇ましい生き方はしてきませんでしたし、貧乏のどん底であったこともあります。
しかし、憧憬であれ、夢想であれ、「ぼんやりとした希望」を抱きつつ生きてきた気はしています。
ロシアの文豪・トルストイの不朽の名作「アンナ・カレーニナ」に、以下の名言が出てきます。
幸福な家庭の顔はお互い似かよっているが、不幸な家庭の顔はどれもこれも違っている。
さすがはトルストイ。物の見事に人生の真実を言い当てていますね。
ところで、人生の不幸とか、幸福とかについて、私はこれまで真剣に考えたことがあったのでしょうか。
私は世間なみの幸せからは、完全にはぐれてしまっているようです。では、これまでの私の人生は、不幸だったのか?
わかりません。ある時は不幸でもあり、ある時は幸福でもあったのでしょう。
ただ、もし不幸というものがあるとしたら、それはどういう状態なのかについて、今の私なら定義できます。
不幸とはお金を稼ぐためだけに、自分の人生を浪費することである。
お金に振り回される時、人は不幸になるのだと思うのです。
贅沢ができないとか、欲しいものが変えないことを、不幸とは言えません。
納豆ご飯ばかり食べていても、私は不幸だとは感じない人間です。
ただ、お金のために自分の人生を犠牲にしなければいけない時、絶望的なまでの不幸を痛感します。
これからの人生、どれくらい生きられるかわかりませんが、お金に振り回される人生だけは懲り懲りです。
今の私は、青春期に夢見た「理想」には、ほど遠い暮らしをしています。
でも、まだ「ぼんやりとした希望」は消えていないのです。
貧しく、つつましやかな暮らしにこそ、ささやかな希望の灯の温もりを感じます。
「貧すれば鈍する」のではなく、「貧すれば得する」というのが私の基本的な考えdかたです。
不幸とはお金に振り回されて、自分の時間を犠牲にすることだと書きましたが、希望が完全に消え去ってしまう時こそ、人生の最大の不幸だと言えそうです。
へこたれませんよ。若い時のような爆発力はありませんが、粘って粘って粘りぬく覚悟だけは持っています。
遠くにかすかに揺れ瞬く灯火のようなものであっても、希望を失わず、その明かりを追い求めて続けていられれば、それは幸福な人生だと言えるのではないでしょうか。
そして今、「貧乏は希望である」とさえ言いたいくらいなのです。
その意味から、私の目指す究極の「最良の節約術とは、希望を持つことだ」に行きつくのでしょうね。
希望を失う時、人は人生をおろそかに、人生の浪費という最悪の事態(反節約的生活)におちいるのだと思います。
希望を抱きつつ、貧しいつつましやかな暮らしの中で希望の灯を燃やし続けること。
そして「ときめき」と「思いやり」を大切に、ていねいに暮らすことが、私にとっての理想の節約生活なのです。