白洲三四郎ブログ

白洲三四郎(しらすさんしろうshirasusanshirou)がミニマリスト計画を実現するまでの記録。旅立ちのために、断捨離と節約を実行中。

文章のぜい肉を断捨離した小説家とは?

文章は簡潔であるべきだ、としばしば言われます。

あえて一つの文を長く書く作家もいますが、通常は短い文、即ち「短文」が良しとされるのですね。

志賀直哉が短文の名人である、という説を聴いたことがあります。

確かに志賀直哉は、文章の達人であることは間違いないでしょう。

しかし、今回私が書きたい「文章の脂肪(ぜい肉)を断捨離した小説家」というテーマでは、違う作家を取り上げたいと思うのです。

 

 文章の断捨離とは何か?

私がここでいうところの「文章の断捨離」とは、基本的には「 文章から余計なものを排除し、読者が読みやすいように配慮すること」を指します。

ただし、もう一歩も二歩も踏み込まないことには、本当の意味での「文章の断捨離」はかなわないとも思っているのです。

では、具体的には、「文章を断捨離する」には、何をしたらよいのか。

形容詞などの装飾語を少なくし、簡潔な表現に徹するべきである」とは、文章作法の基本であって、そういうことをあえて私が書く必要もないでしょう。 

では、2人の作家を例にあげながら、「文章の断捨離」の本質について、私の考えるところをご説明いたします。

太宰治の場合

有名な太宰治も、短文を駆使した小説家として知られています。代表作は「走れメロス」「人間失格」など。

太宰治は短編小説の名作『富嶽百景』で「単一表現」という言葉を使っています。

『富嶽百景』は「富士には、月見草がよく似合う」という決めゼリフが印象的な佳作です。

いろいろと理屈をこねくりまわすのではなくて、単純にスッと人の心に染み入る表現を、太宰治は目指したのでしょうか。

太宰という小説家は、作家というよりも、コピーライター的な資質が優れていたと私は感じています。

今でいう、キャッチフレーズとか、キャッチコピー的な表現がうまい人でした。 

広告コピーの文章の基本は、短い言葉で印象鮮やかに表現することにあります。 

その意味で、太宰治の文章は、余計な表現を極力減らしているという意味から「文章の断捨離」が実行されている言えそうです。

しかし、私が規定したい「文章の断捨離」には、太宰の文体は、当てはまりません。

その理由は、文章は簡潔かつリズミカルで、非凡な才気を感じさせるけれども、実は、余計なものがいっぱい入っているんです。

余計なものとは、形容詞ではなく、センチメンタリズム(感傷)です。

太宰治の文体は簡潔ですが、文章の内容がくどくどしく、実に脂肪分が多い。

感傷がありすぎると、真の感動は呼び覚ます力はないと、私は信じています。

感傷は、文章のおいては、ぜい肉(脂肪)だと言えるでしょう。 

では、真の意味で「文章の断捨離」をかなえた作家は誰なのか?

戸川幸夫の場合

志賀直哉と言いたいところですが、違います。戸川幸夫です。

戸川幸夫は「動物文学」の大家で、 代表作は「高安犬物語」「爪王」など。

戸川幸夫の小説

戸川幸夫の文章は限界まで簡素化され、なおかつ、感傷は徹底的に排除されています。

なぜなら、戸川幸夫が描く世界は、非情な野生の王国だから。

自然界、野生の掟を、厳しく描き出すことで、生きることの力を強烈に訴えかけてくれるのが戸川幸夫の文学です。 

戸川幸夫の文章は、鍛えぬいているアスリートの肉体のように柔軟で強靭。

ぜい肉がそぎ落とされた文体からは、野生動物のような鋭敏な感性を読み取ることができます。

感傷を排除し、文体から脂肪分をそぎ落としたからこそ、戸川幸夫の文章から、生命への深い愛情がにじみ出るのだと思うのです。 

感傷的な文章だったら、戸川文学にある感動は生まれていないでしょう。

以上の意味から「文章の断捨離」を具現化した作家は、戸川幸夫だと言い切りたいのですね。